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瓶の中の古海 ── テロワールの本質は、土だけでは語れない

瓶の中の古海 ── テロワールの本質は、土だけでは語れない

金曜の朝、夏の海と別れを告げる季節

九月最初の金曜日。カレンダーの上ではとっくに秋なのに、東京の昼間はまだ残暑が居座っています。とはいえ、朝晩に走るあのひとすじの涼は、もう夏のそれではありません。セミの声が薄れ、虫の声が祭壇のように静かに夜を引き受け始めた。店頭には梨と新米が並び、夕方の空は一段高く、遠くまで見える。海のほうでは、台風のうねりが折りに触れて押し寄せ、夏休みの賑わいを忘れた海岸線に、秋の海の匂いを運んでくる。

こんな季節の境目には、グラスに注ぐものも少し引き締めたい。熟した果実味たっぷりで陽気に寄り添ってくれた夏の赤から、もっと緊張感があって、食卓の塩気と正面から向き合える白へ。そして海への名残を惜しむ今こそ、実はいちばん深い「海のワイン」の話をするのにふさわしいのです。

「メロワール」── 海を語るワインたち

先日、米国のワインメディアを賑わせていた見出しのひとつに、こういうものがありました。一部のワイナリーたちが、テロワール(Terroir)と同じ本気で「メロワール(Merroir)」に取り組んでいる、という報道です。テロワールの「テール」が土=テール(terre)を指すのに対し、メロワールの「メール」は海=メール(mer)。海流、水深、磯の香り、入り江の地形──そうした「海の条件」がワインの味を決める、という発想です。

耳新しい言葉に見えて、その実、ワインを愛する人たちが昔から勘づいていた感覚に、いまひとつの名前が付いただけです。グラスの白ワインに、ふと磯の香りやヨードのニュアンスを見つけたことはありませんか。あれは偶然でも演出でもない。地質学者も醸造家も、その答えはほぼ一致しています。海は、ちゃんと瓶の中にいるのです。

シャブリ ── 一億五千万年前の海が盃に

もっとも分かりやすい手本は、ブルゴーニュ最北部のシャブリでしょう。この銘醸地の畑を支える土壌は「キンメリジャン」と呼ばれる石灰岩。約一億五千万年前、ジュラ紀の海底だったこの土地には、小型の牡蠣(エギリュラ・ヴィルギュラ)の化石がびっしりと積み重なっています。畑に足を踏み入れると、靴音に混じって足元で貝殻がカランと鳴る、という記述はもはや有名です。

青りんごと白い花の香りの奥に立つ、あの静かな塩気。打ち寄せる石のニュアンスとも呼ばれるミネラル。あれこそ、古代の海が一億五千万年という時間をかけて翻訳しつづけた言葉です。ワイン会で牡蠣とシャブリを合わせるのが定石とされるのは、単なる食習慣ではなく、地質学上の再会なのです。分かれてからの長いあいだ、貝はそのままの姿で海を守り、ワインは畑という陸で海を記憶していた──ならば、その二つを同じテーブルに載せることは、もはや哲学でしょう。

大西洋の両岸 ── ミュスカデとアルバリーニョ

同じ「海系の白」でも、地層ではなく醸造の設計で海を描くのが、ロワール河口のミュスカデです。シュール・リー、つまり発酵後の澱の上で冬を越させて瓶詰めするこのスタイルは、力強い果実味ではなく、貝殻をすすった瞬間のあの潮のほのかな苦みと、パン生地のような酵母の香りで訴えかけます。しかも強烈なのは価格で、千五百円台から「本物」がある。実直な海の白として、実力の割に謙虚なこの産地は、日常のワイン会にとって最良の隠し味です。

一方、大西洋に突き出たスペイン北西部ガリシア、リアス・バイシャスのアルバリーニョは、名前からして海育ち。リアス・バイシャスとは「フィヨルド状の細い入り江」を意味し、そう、日本語で言う「リアス式海岸」の語源にもなった言葉です。荒波に面した急斜面の畑から生まれるこの白は、白桃と柑橘の香りに、ひやりとした岩礁の緊張感をまといます。今夜の食卓がサンマの塩焼きや、アサリの酒蒸しなら、迷わずこちらを開けてください。日本の秋の海の幸と、大西洋の入り江が、驚くほど素直に握手をします。

秋のワイン会に、海を一瓶

九月は、ワイン会の季節が戻ってくる月でもあります。メニューを組むなら、赤の前に「海の白」を一枚挟んでみてはいかがでしょう。シャブリなら一億五千万年の物語、ミュスカデなら価格の逆張り、アルバリーニョなら食中ワインとしての汎用性──と、三本三様、選ぶ楽しみも設計できます。いずれも開けた瞬間に部屋の空気が引き締まる、秋の入口にふさわしい一本たちです。

瓶を並べる棚の一角に、土のワインとは別に「海の棚」を作っておくのも一興。テロワールの「テール」は確かに土ですが、ワインの本質は土だけでは語れない。ときにその奥で、失われたはずの海が、静かに息をしています。いつかその日、あなたがコルクを引く瞬間に。

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