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「完璧」を棄てたワインが、九十七点を獲る





「完璧」を棄てたワインが、九十七点を獲る

「完璧」を棄てたワインが、九十七点を獲る

土曜の朝、デカンターのリストが届く

六月二十日、土曜日。梅雨の合間に薄日が差す朝、スマートフォンの画面にデカンター世界ワインアワード(DWWA)2026のプラチナ受賞リストが届いた。九十七点。審査員たちが何千というグラスを空にして辿り着いた、今年の頂点に立つワインたちだ。数字として見れば、百点満点から三分を引いたに過ぎない。しかし、その三分の隙間にこそ、ワインという存在の本質が隠れている。

土曜の朝の珈琲を淹れながら、そのリストを眺める。プラチナ——金の中の金、と呼ばれるカテゴリー。デカンターの審査は、ただ美味しいかどうかを問うものではない。産地の个性、ヴィンテージの刻印、造り手の哲学が、一本の液体にどう結晶化したかを問う。だから九十七点という数字は、「美味しかった」ではなく「このワインには、何かが宿った」という審査員たちの告白なのである。

百点への執着を手放すとき

興味深いのは、今年のプラチナ受賞ラインナップに、これまで「完璧」を追い求めてきた産地のワインだけではなく、むしろ「完璧」という概念自体を疑ってきたようなワインが含まれていることだ。ウェールズのワインが、「注目してほしい」と声を上げているのと同じ構造だ。ウェールズ——イングランドの西にへばりつく半島。ブドウ栽培の北限などという言葉がまだ通用する世界。そこで造られるワインは、ボルドーのようにはならないし、ブルゴーニュのようにもならない。ならないことを、恥とも不足とも感じていない。ただ、そこでしか生まれない味わいを静かに提示している。

九十七点のワインたちもまた、どこか「完璧」を棄てた場所に立っているように見える。百点とは、すべての要素が規格に合致した状態である。だがワインにおいて、規格への合致は、ときに个性の死を意味する。欠けがあるからこそ光が入る、と誰かが言った。九十七点という三分の欠けは、ワインがまだ「生きている」ことの証しなのかもしれない。

グリューナー・フェルトリーナーの微細な反逆

同じ週に、もう一つの記事が目に留まった。ワイン・エンシュージアスト誌が、「 swooning(うっとりする)」九本のグリューナー・フェルトリーナーを特集したのだ。オーストリアの代表品種。辛口の白ワインの中で、最も誤解されやすいブドウかもしれない。「胡椒のような」とか「白胡椒」という表現が定番すぎて、それ以外の顔を忘れられがちな品種である。

だがこの特集が伝えているのは、グリューナーが「胡椒以外の何か」へと移行しているという兆しだ。若い造り手たちが、温暖化が進む畑で、かつての型にはまらない表現を模索している。冷涼な斜面から生まれる鋭利な胡椒感が、少し丸みを帯びて、桃や白花の香りへと広がり始めている。それは品種の変容ではなく、品種が持っていた可能性の再発見である。「 swooning」という言葉が選ばれたのも、単なる美味しさではなく、予想を裏切られた愉悦を含んでいるからだろう。

九十七点のプラチナワインと、 swooningのグリューナー。一つは審査の頂点に立ち、もう一つは雑誌の小さな特集記事に過ぎない。だが両者は同じ方向を向いている。「完璧という檻」から抜け出した味わいだけが、人の心を動かすという方向へ。

栃木の葡萄、屋上の葡萄——地図を書き換える

日本のニュースにも、同じ流れが見える。栃木市が国の特区に認定され、ブドウからワインを造る産地として本格的に歩み出す。記念式典で市長が祝杯を挙げ、ブドウ農家の顔には決意が滲んでいたという。栃木——関東平野の内陸部。冷涼とは言い切れない気候の中で、何が生まれるのかはまだ誰にも分からない。だが分からないことを恐れずに植える。それが、ワインの始まりだ。

もう一つ。文京区と東洋学園大学が、ビルの屋上にワイン用品種を栽培しているという記事。「いつかたくさんの屋上をブドウ園に」という言葉が、都市とブドウの新しい関係を暗示している。これはロマンではなく、計算された実験だ。都市のヒートアイランド、風の通り道、防水と根の張り方。すべてが未踏の領域だが、だからこそ面白い。栃木の畑も、文京区の屋上も、「正解」を持たない場所でブドウを育てるという点で、九十七点のワインたちと同じ態度をとっている。

土曜の午後に開ける一本

梅雨の土曜日。午後の日差しが雲の隙間に点滅する時間帯、本を開いてもいいし、音楽をかけてもいい。だが、その余白に一本のワインを置くことを、私は提案したい。

提案するのは、九十七点のワインでなくていい。「 swooning」するグリューナーでもいいし、栃木の新酒でもいい。屋上で育ったブドウの、まだ不器用な一瓶でもいい。大切なのは、そのワインが「完璧」を棄てた味わいを持っているかどうかだ。規格に収まらない何か、期待を裏切る何か、言葉にしにくい何か。その三分の欠けこそが、土曜の午後にふさわしい。

プラチナ受賞ワインには、審査員の興奮が刻まれている。その興奮は、点数ではなく、出会いの質にある。「このワインには何かが宿った」という感嘆は、酒蔵の奥で起こった小さな奇跡が、ガラスの底まで届いた瞬間の記録だ。我々がグラスを傾けるとき、その奇跡の残響を感じることができるかどうか。それが、九十七点と九十点の差である。

終わりに——三分の隙間に何が住む

デカンターのリストを閉じる。窓の外は、雲がゆっくりと流れている。梅雨前線が北上し、太平洋高の縁に乗せられた湿った空気が、列島を包み込んでいく。ブドウの房が、雨の重みで枝をしならせている頃だ。その重みこそが、秋の収穫に向けたブドウの修行であり、ワインの予行演習である。

九十七点。三分の隙間。そこに何が住んでいるのか。おそらく、言葉では書ききれない何か。テイスティングノートの余白に、造り手の沈黙に、審査員の溜息に。その隙間こそが、ワインを「飲み物」から「体験」へと格上げする。今日、グラスを傾けるなら、ぜひその隙間に耳を澄ませてほしい。完璧でないからこそ、寄り添える味わいがある。百点に到達しないからこそ、もう一杯と思える香りがある。

土曜の午後。梅雨の合間の光。そして、三分の欠けを携えたワイン。それだけで、十分に豊かな一日になる。


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