風は、東から吹いてきた──火曜の朝、バルカンの土着品種が旗を立てる話

東風が運んでくる予感
十月十三日、火曜の朝。東京は薄雲のない空に強い風が走っている。気温は二十二度、それでも風が頬を叩くたびに、秋は着実に足場を深くしているのがわかる。気象情報に寄れば、今日の風は南寄りとされている。だが私の背中には、もっと遠い東──地理的には西北だけれど、物語としては「東」の風が吹いている気分になる。三連休が終わって最初の平日、街が仕事のリズムを取り戻す火曜の朝。窓を開け放てば、風の音だけがはっきりと聴こえる。
そういう朝に、一通のニュースが目に留まった。ワイン界の権威ある国際コンペティションDWWA二〇二六年で、バルカン半島の「土着品種」が記録的な年を迎えたという。ボスニア、セルビア、クロアチア、モンテネグロ──かつて「ワインの地図の端」だった国々の原産種が、国際的な審美眼の前で旗を立てた。火曜の強風は、どうやら東南欧の山のほうから吹いてきたらしい。
名刺代わりの国際品種、その向こう側
ワインの世界には、いわば「共通語」がある。カベルネ・ソーヴィニヨン、メルロー、シャルドネ。世界各地で栽培され、審査員が味だけで銘柄を当てられるほど常識化した品種だ。新興の醸造所が世界に名を売るとき、まずこの共通語で話しかける。それは合理的だし、間違ってはいない。英語を話して海外の客を迎えるのと同じこと。
けれど、今年のDWWAでバルカン半島の醸造家たちは別の選択をした。英語ではなく、母語で話しかけた。クロアチアのポストゥプ、モンテネグロのヴラナツ、セルビアのプロクパツ──聞き慣れた響きではないかもしれないが、それぞれが数百年、時にはそれ以上の年月を、ディナルアルプスの石灰質の斜面とアドリア海の風のあいだで育ててきた品種だ。審査員たちを最も強く打ったのは、驚きではなく「説得力」だったと報じられている。母語は、磨けば磨くほど共通語より雄弁になる。
これは日本のわれわれにとって、他人事ではない。甲州やマスカット・ベーリーAが国際コンペで評価され始めた経緯を思い出すと、同じ物語が日本列島でも十年ほど先行して進行していたのがわかる。土着品種の復権とは、流行でもフェティッシュでもない。世界のワイン地図が「中心と周縁」から「百の方言の合唱」へと再編されている、構造的な変化の表れなのだ。
ヴラナツ──山肌に刻まれた黒い力
具体例を一つ選ぶなら、モンテネグロのヴラナツを挙げたい。名前は「黒い」という意味を持つ。小粒の黒ブドウ、厚い果皮、力強いタンニン。かつては山あいの家庭で大瓶で飲まれる「力のワイン」だったが、近年は古木を選別し、単一畑の表現に舵を切った生産者たちが国際的評価を得つつある。風格はエキス分たっぷりのブラックベリーと黑胡椒、そして地中海の塩の記憶。タンパク質豊かな 秋の食卓──きのこのアヒージョ、牛すじの煮込み、焼き栗──に強く寄り添うタイプのワインだ。
火曜の夜に開けるボトルとしてはやや気が早いかもしれない。だが、この時期の土着種の魅力は「今、飲まなくてはいけない理由がない」ことにある。高年産の期待が高まる前夜である今、価格はまだ控えめで、市場には静かに品質が上がったヴィンテージが並び始めている。気づいたときには入手困難になっているのが「発見のパターン」だ。アルト・アディジェの白がそうだったように、バルカンの赤も数年後のわれわれを少し驚かせるだろう。
火曜の帰り道、一房の遠出
帰り道、強い風を背にしてワイン専門店の前で足を止める。棚を見れば共通語ばかりが並んでいるが、探せば必ず「母語」が静かに佇んでいる。ラベルに読めない文字が書かれているかもしれない。それでいい。母語とは、聞き取れなかった人に説明するのがもっとも難しい言葉だからだ。火曜の夜、風の強い日のカーテンを厚く引き、一枚の薄いグラスに遠い山の斜面を注ぐ。旗は既に立っている。あとは、杯が揺れる音だけが残る。







