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春の終わりの、心地よい『余白』とワイン

カレンダーをふと見ると、四月二十一日。
窓から入り込む風には、もう春の終わりを告げる、少しだけ湿り気を帯びた初夏の気配が混じり始めています。

四月の始まりからというもの、私たちはどうしてあんなに急いでいたのでしょう。
年度初めという不可視の圧力に突き動かされ、「効率的に」仕事をこなし、「正解」を導き出し、誰にとっても心地よい「正解の振る舞い」を演じ続ける。そんな一ヶ月を走り抜けてきた今、ふと立ち止まると、そこには心地よい疲労感というよりも、どこか精神的な空白のような、ひどく乾いた疲労が溜まっていることに気づきます。

そんな夜に、私はワインを抜きます。
ここで言うワインは、誰かに誇るための銘柄でも、知識を披露するためのヴィンテージでもありません。ただ、今の私の心と身体が「あ、これがいいな」と感じる、直感だけが導き出した一杯のことです。

グラスに注がれる、トクトクという静かな音。
ゆっくりとグラスを回し、立ち上がる香りを深く吸い込む。
その一連の動作は、私にとって、日常という名の「高速道路」から、ふっと出口へ降りるための儀式のようなものです。
私たちは普段、あまりにも速すぎる速度で時間を消費しすぎている。ラベルに書かれた格付けや、誰かが決めた「正しい飲み方」なんて、今の私にはどうでもいいことです。ただ、口に含んだときに、喉の奥でじんわりと広がる温度感や、ふっと肩の力が抜ける感覚。そんな、名付けようのない「心地よさ」にだけ身を委ねていたい。

そうして辿り着くのが、私が最近切実に求めている「余白」という時間です。

「余白」とは、単に何もしない時間のことではありません。
それは、何か意味のある結論を出さなければならない、という強迫観念から解放される時間のことだと思うのです。
私たちはいつの間にか、「有意義な会話」をしなければならないし、「前向きな結論」で締めくくらなければならない、という見えないルールに縛られています。でも、人生において本当に贅沢なのは、実はその正反対にあるのではないでしょうか。

例えば、誰かと一緒にいて、ふっと訪れる沈黙。
あるいは、結局何の解決策も出ないまま、とりとめもなく続いていく、くだらない会話。
「あれはどうだったっけ」「なんとなく、あっちの方が良かった気がするな」
そんな、結論の出ない、生産性の欠片もない時間が, どれほど心を癒してくれることか。
意味を求めない。正解を求めない。ただ、そこに誰かがいて、同じ温度のワインを飲みながら、とりとめもない言葉を空間に浮かべている。その緩やかな時間が、今の私には何よりも贅沢な「余白」に感じられます。

近々、ワインパーティーを開こうと思っています。
けれど、私はこの会を「完璧なイベント」にしたくはありません。
凝った料理が並び、最高のペアリングが用意され、誰もが満足して帰るような、そんな「正解」のパーティーではなく、あえて少しだけ隙のある、不完全な集まりでありたい。

準備に不備があったとしても、会話が途切れて気まずい瞬間があったとしても、それがいい。
その「隙間」こそが、参加する誰もが自分の心を緩められる、心地よい余白になるはずだから。
誰にとっても「正解」である必要はなく、ただ「今の私はこれでいい」と思える、そんな空気感を共有できたら最高です。

忙しなく過ぎ去る四月の終わりに。
ワインという、ちょっとした口実を添えて。
お互いの人生に、心地よい「余白」を書き込めるような、そんな時間を過ごせますように。

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