桜が散るから、ワインが美しい

桜が散るから、ワインが美しい
東京の桜は、もう終わりかけている。
先週まであれほど人を集めていた並木道は、今日の雨に打たれてほとんど葉桜になっていた。歩道に散り敷かれた花びらが、靴の裏に貼りついた。それを剥がそうとしながら、ふと立ち止まった。美しいものは、消えゆくから美しいのだと、ワインを飲み始めてから初めてそれが腑に落ちた気がした。
あの春の夜のことを思い出す。三年前、友人の誘いで参加した小さなワイン会だった。場所は代官山の古いビルの一室。十人ほどが集まって、テーブルにはブルゴーニュのピノ・ノワールが一本だけ置かれていた。
「2008年だよ。もう開けないと、もう飲めないから」
ホストがそう言いながらコルクを抜いた。最初の一杯は、正直よくわからなかった。少し枯れた香り、土のような奥底、そしてかすかな赤い果実。「美味しいのか?」と自問したが、その問いはすぐに別の感覚に塗り替えられた。このグラスの中に、誰かが16年間待った時間が閉じ込められているという感覚だった。
「飲み頃」という残酷さ
ワインには「飲み頃」がある。早すぎても遅すぎても、その酒は本来の姿を見せない。完熟した瞬間にだけ開くのだ、花のように。
あの2008年のブルゴーニュは、まさにその峠を越えかけていた。あと二年早ければ若すぎて閉じていたかもしれない。あと二年遅ければ、色素も酸も、もう耐えられなかっただろう。その夜の一杯は、奇跡的な「今」だった。
桜と同じだと思った。
東京の染井吉野は、咲いてから散るまでに一週間もない。その短さが人を公園へ急かし、シートを広げさせ、ビニール袋いっぱいのコンビニ惣菜とビールを用意させる。でも本当は、みんな知っている。散るから会いに行くのだ、と。
ワイン会という「今夜だけ」の共同体
ワイン会には独特の時間が流れる。
そこに集まった人々は、もしかしたらもう二度と同じ顔ぶれでは会わないかもしれない。同じボトルはもう開けられない。同じヴィンテージも、毎年変わる。つまりワイン会は本質的に、再現不可能な一夜を共有する行為なのだ。
- 初めて会った隣の席の人が、思いがけず深い話をしてくれた夜
- 雨の日に急きょ集まって、傘を乾かしながら飲んだ安いランゲ・ネッビオーロ
- 誕生日の友人が「こんなワインは初めて」と目を細めた瞬間
それらはすべて、撮影もできないし、再配信もできない。グラスの中のワインが消えると同時に、その時間も消える。だから記憶に刻まれる。
散り際を愛する技術
春になるたびに、ワインの飲み方が少し変わった気がする。
かつては「名前のあるワイン」「高いワイン」を求めていた。ラベルに有名生産者の名が入っていれば安心した。でも今は違う。今夜、この席で、この人と飲む一杯に目が向くようになった。ヴィンテージの評価よりも、誰が注いでくれたか。産地のスターよりも、どんな話をしながら飲んだか。
桜を見上げながらそう思う。花びらが一枚落ちるたびに、春が一歩遠のく。そのことを寂しいと感じるよりも、今ここにある白い花に目を向けるほうが、人間としてよほど豊かな気がする。
次の花見の季節、あなたはどんな一杯と、誰と、どこで春を見送るだろうか。
ワインは桜と似ている。そのことを、この季節になると毎年思い出す。







