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不完全な自分を肯定する、雨の日の白ワイン

時計の針が日付を跨いだ頃、ようやく部屋のなかの空気が、自分の呼吸と同じ速度で動きはじめる。天井の照明はとうに落としてあって、テーブルの上で揺れているのは、小さなランプの琥珀色だけ。グラスの底に沈んだ赤が、その光を吸い込んで、深い森の奥のような色をしている。誰かが脱いだジャケットが椅子の背にだらしなく掛かっていて、誰かのスマートフォンは画面を伏せたまま放置されている。今夜はもう、誰も画面の向こうに呼ばれない。それだけのことが、こんなにも贅沢だ。

私はこの時間を、勝手に「正解のない聖域」と呼んでいる。日中の私たちは、あまりに多くの正解を強いられている。会議での発言の正解、メールの返信文面の正解、家族に向ける表情の正解。正解の数だけ、私たちは少しずつ自分の輪郭を削って、丸い記号のような何かに自分を成形していく。そうやって一日を生き延びた人間が数人、ようやく辿り着くのが、この薄暗いテーブルなのだ。ここでは、削られた輪郭の、ささくれた断面のままで座っていてよい。

面白いもので、ワインというものは二種類の「正しさ」を呼び寄せる。ひとつは、技術としての正しさだ。産地、品種、ヴィンテージ、土壌の構成、樽の種類、抜栓してからの経過時間。語ろうと思えば、いくらでも整然と語れる体系が背後に控えている。私もかつては、その整然さに憧れた時期があった。知識という鎧を着れば、人前で何かを語ることが少しだけ怖くなくなる気がしたから。

けれど、夜が更けて、二本目の栓を抜く頃になると、もうひとつの正しさが、こちらの方が本物だという顔をして立ちのぼってくる。それは、人と人とのあいだに流れる、ぐちゃぐちゃで、結論の出ない、しかし妙に体温のある正しさだ。誰かが、十年前に別れた恋人の話を、突然はじめる。誰かが、最近職場で泣いてしまった話を、笑いながらする。話の途中で、別の誰かが「あ、それ、わかる」と小さく言う。その「わかる」には、引用元も、論拠も、ない。あるのは、自分も似たような夜を抱えてここにいるという、それだけの事実だ。

テクニカルな正しさは、間違いを許さない。けれど、人間としての正しさは、間違いの集積でしか成り立たない。失敗した恋、間に合わなかった言葉、伝えそびれた感謝、捨てきれなかった執着。そういう不格好な破片を、ひとつずつテーブルに置いていく作業に、ワインは静かに付き添ってくれる。香りを分析する必要はない。ヴィンテージを当てる必要もない。ただ、グラスを持つ手の重さが、肩から少しずつ抜けていく感覚さえあれば、それでいい。

ある夜、長く付き合いのある友人が、ぽつりと言ったことがある。「結局さ、何を飲んでるかなんて、どうでもいいんだよね」。彼は決してワインを軽んじているのではなかった。むしろ逆だ。銘柄もラベルも、本当はこの夜の主役ではないということを、彼はちゃんと理解していた。ワインは、ここに集まった私たちが「もう力を抜いてもいい」という合図を、互いに送り合うための、ただの信号なのだ。コルクを抜く音、グラスが触れ合う澄んだ音、最初のひとくちのあとに漏れる小さなため息。そのひとつひとつが、「今夜のあなたは、正解でなくていい」という、無言の許可証になっている。

琥珀色のランプの下では、笑い声さえ低く沈む。大声で笑う必要のない笑いというものが、この世にはある。喉の奥でくぐもるような、半分は息のような、そんな笑い。誰かのくだらない冗談に、誰かが少し遅れて反応して、また沈黙が戻る。その沈黙が、決して気まずくない。むしろ、沈黙のなかで、それぞれが自分の人生の続きを、こっそり考えている気配がする。気配を共有できる相手と同じ部屋にいるということ。ただそれだけが、明日からの数日分の体力になる。

私は、人がほんとうに救われる瞬間というのは、立派な助言や、見事な解決策によってもたらされるのではないと、最近よく思う。むしろ、誰にも整理できない感情を、整理しないまま受け取ってもらえた、というあの感触のほうに、私たちはずっと支えられている。ワインを介したこの夜の集まりは、その受け取りの儀式に近い。差し出されるのは結論ではなく、断片だ。受け取られるのも、答えではなく、ただ「いま、ここに居ること」そのものだ。

やがて、グラスの底に最後のひとくちが残る。誰かがそれを名残惜しそうに眺めて、しかしもう注ぎ足したりはしない。終わらせ方も、私たちはそれぞれの呼吸で決めていい。コートを羽織り、玄関で靴の紐を結び直すあいだ、頭の片隅にはまだ、低く沈んだ笑い声と、琥珀色の残像がある。外に出れば、また正解だらけの世界が待っている。それでも私は、今夜たしかに、正解を持たないままの自分が、誰かの横に座っていてよかったのだという、そのか細い事実を、明日のポケットにそっと忍ばせて歩いていける。

夜が私たちにくれるのは、酔いではなく、たぶん、許しに似た何かだ。そしてその許しは、立派な銘柄の瓶からでも、近所で買った無名の一本からでも、まったく同じ濃度で、同じ温度で、こちらにやってくる。だから私は、今夜もまた、正解のない誰かの横に座るために、グラスをふたつ取り出すのだろう。

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