真夏の水曜に、ロゼを一杯だけ ―― 英国資本が買ったプロヴァンスの小さな Domaine(ドメーヌ)

真夏の水曜に、ロゼを一杯だけ ―― 英国資本が買ったプロヴァンスの小さな Domaine(ドメーヌ)
― 都会の残暑と、テロワールに刻まれた物語 ―
八月十二日、水曜日。東京の朝は、窓を開けただけでぬるい空気が流れ込んでくる。アスファルトがまだ夜の名残を吐き出し、駅前のカフェではアイスコーヒーの氷が遠慮がちに鳴っている。こういう日は、家に帰ってから冷房の効いた部屋で、一杯だけ何かを飲みたくなる。ビールでもいい。ハイボールでもいい。だが、今夜だけは違う。今夜は、ある物語の詰まったロゼを一杯だけ、ゆっくりと傾けたい。
今週、英国のワインメディアが小さなニュースを報じた。歴史あるプロヴァンスのエステート(荘園)が、英国人バイヤーによって買い立てられた、という話である。ワインの産地にとって、ワイナリーがひとつの国の資本の手に渡ることは、それ自体が「物語の書き換え」を意味する。ブドウは同じ土で育ち、太陽は同じ角度から注ぐ。だが、そのワインの行く先と、価格の定め方、そして何より「誰のために造られるか」が、静かに塗り替えられていく。
ロゼの「色」は、テロワールそのものの写し鏡
プロヴァンスのロゼと聞くと、桜色、薄桃色、淡いアプリコット――そんな色を想像する人が多いはずだ。だが、あの淡い色は、ブドウの「絞り方」の技術だけで生まれるのではない。石灰質の土壌、ミストラルが運んでくる潮風、そして昼夜の寒暖差。それらすべてが、ブドウの果皮に薄い色素を残し、果汁に微かな塩味と清涼感を与える。
今回、英国資本が入ったという「歴史的な」エステートが具体的にどのアペラシオンに属すかは、まだ公にされていない。だが、プロヴァンスの主要なアペラシオン ―― コート・ド・プロヴァンス、 coteaux d’Aix-en-Provence、 coteaux varois ―― のいずれであっても、そこに育つグルナッシュ、サンソー、ムールヴェードル、ロール(Rolle)といった伝統品種は、英国市場が近年強く求める「食事と共にある白〜ロゼ」の中核を成している。
ロンドンやマンチェスターの住宅街には、毎週末「Sunday Roast(サンデーロースト)」の食卓が並ぶ。 roast beef、 roast chicken、あるいは繊細な lamb chop。その横に置かれるのは、かつては重めのボルドーやブルゴーニュの赤だったが、いまは食事の邪魔をしない、香り高いロゼや軽快な白へと、静かに嗜好が移ってきている。気候の温暖化で赤ワインのアルコール度数が上がる中、欧州の消費者は「食事と並走する、洗練された軽さ」を再発見し始めている。
ロワールの白、英国の「もう一つの選択肢」
同じニュースのなかで、もうひとつの産地が静かに脚光を浴びている。ロワール地方だ。ロワールの白 ―― ソーヴィニヨン・ブラン、シュナン・ブラン、ピノ・グリ ―― は、かつてはパリや東京のワイン愛好家のための存在だった。だがいま、英国のインポーターたちが続々とロワールの小区画に赴き、「家族経営の小さなドメーヌ」を直接買い付ける動きが進んでいる。
この潮流の背景には、二つの事実がある。第一に、ワイン市場が「大量生産・大量流通」の時代から、「**物語を売る**」時代へと確実に変遷していること。第二に、新型コロナ以後の数年間、欧州の労働人口が都市部から地方へと僅かながら流れ、地方の小規模ワイナリーが経営の継続のために買い手を探しているという現実である。
つまり、今プロヴァンスやロワールで起きている「英国資本の流入」は、単なるマネーゲームの再編ではない。ワインという飲み物そのものの、価値の源泉が変わりつつある兆候なのだ。
真夏の夜に選ぶべき一本
さて、今日の東京。残暑の陽射しを避け、冷房の効いた部屋で飲むなら、わたしは次のいずれかを勧める。
まず、プロヴァンスのロゼを一本。料理が和食 ―― 冷たい素麺、ところてん、酢の物、あるいは鯛の塩焼き ―― のときには、意外なほど和食と寄り添う。 Saint-Tropez(サン・トロpez)周辺の古樹グルナッシュから造られたロゼなら、貝の蒸し物や鶏の梅しそ焼きにもよく合う。
次に、ロワールのソーヴィニヨン・ブラン。中でも Sancerre(サンセール)や Pouilly-Fumé(プイィ・フュメ)ではなく、 Touraine(トゥーレーヌ)や Quincy(カンシー)の小区画ものを選ぶと、価格も手ごろで、デイリーワインとしても秀逸だ。グレープフルーツや白桃の香りに加え、火打石を思わせる硬質なミネラルが、蒸し暑い夜に清涼感をもたらしてくれる。
もし今夜、友人や家族と食卓を囲むなら、もうひとつの選択肢がある。クリスティーズで先ごろ記録的な価格で落札された、1973年の **Stag’s Leap Wine Cellars(S.L.V.)** ―― かの「パリスの審判」でフランスワインを破ったカルトワイン ―― ではないが、こうした「**歴史が詰まった一本**」を、数人でお猪口に少しだけ分けて飲むという愉しみ方もある。ただし、こちらは市場価格が高騰しているため、実際に手に届くのはごく一部の好事家に限られるだろう。
「所有欲」と「知的好奇心」の、その先にあるもの
ワインという飲み物は、突き詰めれば「液体としての土地の記憶」である。同じ品種、同じ醸造家が造っても、土が違えばワインはまったく別の表情を見せる。そして、ワイナリーの所有者が変わることは、その土地の「これから」の物語が、誰によって語られるかが変わるということだ。
英国資本がプロヴァンスやロワールに投じる金額は、表向きは投資である。だがその実体は、欧州の食文化が今後数十年にわたってどう変容していくか、その主導権を握ろうとする試みでもある。
東京でワイングラスを傾けるわたしたちは、その「**物語の買い手**」の一部になることはできない。だが、今夜の一杯を選ぶときに、「**どこの誰が、どんな土で、どんな想いで造ったのか**」と少しだけ思いを馳せることはできる。
その小さな知的所作こそが、所有欲でも、単なる好奇心でもない、ワインの最も純粋な愉しみ方だと、わたしは信じている。
それでは、よい夜を。冷房の設定温度は、二十七度で。ワインの温度は、白色で八度、ロゼで十度が目安です。







