金木犀は二週間しか咲かない──秋晴れの金曜、争奪戦が始まった白い山の話

金曜の夕方、街角から金木犀がにじむ
十月九日、金曜。東京は快晴、二十三度、湿度は六割前後、南西の風が少しせかす一日だった。空は高く澄み、夕方ともなると街角のあちこちから金木犀の香りがにじみ出す。信号の待ち時間が長く感じられて、思わず歩を止めたくなる匂い。それが金木犀だ。この香りには期限がある。二週間もすれば街から消え、翌日には思い出せないほど薄れてしまう。季節は瓶詰めできない——といいたいところだが、人類はその不可能に挑戦し続けた末に、一種の職業まで発明した。ワインつくりである。香りを液体の形で所有しようとする営みには、今日も世界各地で買物客が列をなしている。
香りで争奪戦が始まる、白い山の話
米誌〈ワイン・エンスージアスト〉は今週、「グローセス・ゲヴュクスを求める争奪戦が始まった」と報じた。グローセス・ゲヴュクス、略してGG。ドイツの名門醸造者同盟VDPが認定する、最高位の畑(グローセ・ラーゲ)から生まれる辛口白ワインだけが名乗れる肩書きで、ラベルにはGGの文字と一房の紋章が刻まれる。九月に新ヴィンテージが解禁されると、旬もしないうちに注目畑の瓶は店頭と予約リストから消え始めるという。赤ワインの争奪戦なら日常茶飯だが、白ワインでこれほど静かで、それでいて急な争奪戦が繰り広げられるのは珍しい。しかも舞台は、「甘口の国」という古いレッテルを長らく着せられてきたドイツである。
狙われる一枚たち──モルシュタインからペヒシュタインまで
いま世界が狙っている瓶をいくつか挙げてみる。ラインヘッセンのヴィットマン「ヴェストホーフェナー・モルシュタイン」は、石灰質の豊かな南向き斜面に植えられたリースリングが、絞った酸の輪郭の中に白い花と青りんご、火打石を打ったようなミネラルの香気を重ねる一枚だ。同じラインヘッセンのケラー「ダルスハイマー・フーバッカー」は、密度と伸びのバランスをもっとも美しく取る土壌のひとつと目される。ラインガウのロバート・ワイル「キーダリッヒ・グレーフェンベルク」、プファルツのブルクリン=ヴォルフ「フォルスター・ペヒシュタイン」も、近年じわじわと値上がりを続ける人気畑である。乾いた顔をしながら味わいは深く、時間をかけて育つ白。開けてすぐの火打石の香りも捨てがたいが、五年、十年と瓶の中で熟すにつれて含みを帯びていく変化こそ、この肩書きの本当の報酬である。
若い世代の求める「農園の顔」は、老舗の畑に完成していた
面白いのは、この争奪戦を後押しする風である。今週の米国では、ミレニアム世代とZ世代を中心に有機ワインの消費が伸びているとの市場報せもあった。購買層の若返りは今や世界の共通項なのだが、GGの生産者たちはその潮流の十数年先を、農法という形で先歩いていた。ヴィットマンはラインヘッセンでいち早くビオディナミ、生物動力農法に転換した先駆けであり、ブルクリン=ヴォルフもプファルツの核心畑のリースリングをビオディナミで育てることで知られる。自然に寄り添う畑仕事というと、新興の自然派ばかりが注目を集めがちだが、伝統の肩書きを守る老舗ほど、その実践の中身は徹底している。若い世代が求める「農園の顔」は、意外にも百年前から続く畑のなかにこそ仕上がっているのだ。
松茸の湯気に、火打石を添えて
味わいの手前で、食卓の相談を一つ。秋の和食と乾いたリースリングの相性は、季節限定の名品である。土瓶から青い湯気を立てる松茸の蒸し物、椀に注ぐだしの香り。うまみの柔らかい料理には、火打石の緊張感がぴたりと寄り添う。塩焼きの秋刀魚にも、レモンを絞らなくてもリースリングの酸が脂を整えてくれる。炊きたて新米の香りと、グラスに立ちのぼる白い花の香りを重ねてみれば、十月の夜長の価値が少しだけ引き上がるはずだ。秋晴れの金曜の夜には、店頭価格のまま味わえるのは今週が最後かもしれない、という心持ちでグラスを立てたい。
散らない香りは、セラーにしか置き場がない
金木犀は二週間で散る。GGの予約リストも、その前後に閉じる。香りの世界の後悔は、ほとんどの場合「なぜ買わなかった」という形をしている。ワインは飲み物であると同時に、季節の香気を瓶のなかに長期保管する装置でもある。十月九日、金曜。街が金木犀の匂いに包まれる二週間のさなか、ドイツの白い山は誰かのセラーへ静かに消えていく。散らない香りを一枚だけ所有できるなら、この秋の夜長の、いちばん贅沢な買い物は棚のほうにある。







