闇は、ワインの味方である ── 夜が昼を追い越す日、バジリカータの地下へ

九月二十三日、水曜、秋分の日。朝から弱い驟雨が通り、気温は二十五度。東寄りの風が湿った空気を運んでいて、傘を差すかどうか迷う、生ぬるい雨である。暦の上で今日を境に、夜の長さが昼を追い越す。夏のあいだ「昼が勝っていた」季節が終わり、これから光は毎日少しずつ手を引いていく。私たちは無意識に、これを「日が短くなる」という損のように数える。けれど今日は、あえて反対の側から眺めてみたい。夜が長くなるとは、いったい誰にとっての福音なのか。──答えの一つは、ワインである。
一般の感覚では、明るいところほど物は「よく見え」「価値が見える」とされる。 showroom のガラスケース、店頭のペンダントライト、白く光るショーケース。価値は光の中にある、というのが現代の暗黙の了解だ。ところがワインの世界では、この常識が正確にひっくり返る。光は、ワインにとって名指しで避けるべき敵なのだ。太陽光や蛍光灯に含まれる紫外線と青色光は、ワインの中の成分と反応していわゆる「光劣化」を起こす。日光に照らされた白ワインやシャンパンが、腐ったキャベツや硫黄のような異臭を帯びる「ライトストラック」と呼ばれる欠陥は、醸造家が最も恐れる事故の一つである。だから本物のセラーは薄暗く、キャップシールの下の液面は、棚の奥に眠る。明るい店頭に長く立っていたボトルを買うとき、私たちは実のところ「日焼けしたワイン」を買っているかもしれない。光が価値を可視化するのではなく、光が価値を侵食する。この逆説を、いちばん雄弁に語ってくれる場所が今週ある。今週のワイン・エンスージアストが「The Otherworldly Wine Caves of Italy’s Basilicata Region」──イタリア・バジリカータ州の、この世のものとは思えないワイン洞窟を特集していたのだ。
長靴のかかとの下に、地下の国がある
バジリカータ。イタリア半島の「長靴のかかと」の付け根にあたる、訪れる観光客も少ない山がちな州である。知名度では隣のカンパニアやプーリアに遠く及ばないが、この州には二つの「地下」がある。一つは世界的にも有名なマテーラのサッシ。峡谷を掘った洞窟住居が連なる旧市街で、映画の舞台にもなった太古の都市景観だ。もう一つは、州北部にそびえる休火山モンテ・ヴルトゥーレの山体そのもの。溶岩と火山灰が積もったその斜面には、軽石や凝灰岩をくり抜いた洞窟が無数に掘られており、かつては貯蔵庫として、今はワインの熟成庫として使われている。
ここで育つ黒ブドウが、アリアニコである。遅咲きで、収穫は十月に入ってから。凝縮した果実と、鉄のような、灰のような硬質のタンニンを持ち、南イタリアでありながら北のピエモンテ産ネッビオーロを思わせる構造の強さから、「南のバローロ」と呼ばれてきた。ヴルトゥーレ山麓で醸される「アリアニコ・デル・ヴルトゥーレ」は、その名が付けられた州唯一のDOCGであり、樽を卒業したあとも数年から十年単位で瓶の中の闇の中に置かれる。つまりこのワインの価値の半分以上は、洞窟の闇と瓶の闇という「二段構えの夜」の中で、誰の目にも触れぬまま積み上げられているのだ。
闇の中で、何が起きているのか
熟成とは、外的な力で味を作る作業ではない。ワインの中に最初から閉じ込められた成分同士が、時間をかけてゆっくり結び直していく、目に見えない化学の連続である。タンニン同士が手を取り合って大きくなり、荒々しさを丸く整え、香りの分子は果実から乾燥果実へ、樽香から土や香辛料へと、静かに変奏していく。この作業に必要なのは、光でも熱でもなく、安定した低温と静寂と、完全な闇だけだ。光を浴びれば反応が乱れ、温度が揺れれば進行が崩れる。ワインの熟成にとって、闇とは「光がない状態」ではなく「化学が休みなく働くための部屋」なのである。
考えてみれば、人の側の営みも似ている。眠っているあいだに記憶が整理され、体が修復されるように、人間の成長の多くも「見えていない時間」に進行する。ワインの熟成は、その夜の仕事のワイン版である。昼に輝く味ではなく、夜に編み込まれる味。バジリカータの洞窟が「この世のものとは思えない」と評されるのは、そこが光の世界の掟の外側にありながら、いちばん確かな時の進み方を実現しているからだろう。
闇の熟成を、食卓で確かめる
ヴルトゥーレ山麓の生産者なら、エレナ・フッチの「アリアニコ・デル・ヴルトゥーレ」が単一畑の純粋な表現としておすすめだ。黒い果実、鉄錆、火山の鉱物香が層をなす本格派で、開けてすぐより抜栓後一時間以上置いた方が姿を現す。パテルノステルの「ラ・サラ」はややしなやかで入口に適し、グリファルコの「レプニ」は凝縮派の教科書ともいえる一本である。いずれも十六度前後、やや高めの温度で、大きめのグラスで時間をかけて。相棒は秋の味方、きのこの煮込み、鴨のロースト、豚の角煮のような甘辛い煮もの。タンニンの直線が土の旨味にぶつかると、皿の上の秋が一気に深くなる。
今夜から夜が長くなる。それは日が短くなる話ではなく、光が席を立ち、闇が舞台に立つ話だ。人間の目には退屈な時間に見えるその夜に、ワインは最も集中している。秋分の日、窓の外の弱い雨が夜を湿らせている時間、地下の洞窟で眠る南イタリアの黒を一杯、灯りの絞った席で開いてみてはどうだろう。闇が敵の季節が終わり、闇が味方の季節が、今日から始まる。







