セクシーなワインは、無地のラベルを着ている ── 雨の土曜、メルキュレの引力

九月二十六日、土曜。東京は朝から小雨。気温は十九度でほぼ止まり、湿度は九十一パーセント、風はほとんど動かない。秋分を過ぎた長月の終わりの雨は、もう夏の夕立ではなく、一日じっくり街の角を柔らかく包み込む種類の雨だ。外出の用事を全部キャンセルして、カーテンを少し開け、部屋の電気を暖色に落とす。こういう日に着る服は地味でいい。そして、こういう日に開けるワインも、実は地味な姿をしていたほうがいいのかもしれない──今朝、ワインメディアの見出しの一句に、指が止まった。「セクシーなワイン」は存在するのか。
その見出しは、ブルゴーニュの造り手、ブリュノ・ロランゾンと、イタリアのファッションハウス、ヴェルサーチェの二つの美意識を並べていた。雨の土曜の朝には少し刺激的な問いだ。考えてみれば、ワインの世界で「セクシー」という形容は、どこか安易に使われすぎている。樽の香りが豊かで果実味の厚いワインを、私たちは反射的にそう呼ぶ。しかし本当にセクシーなのは、すべてを一瞬で見せるものだろうか。それとも、何かをわざと隠し続けるものだろうか。
最も無地なラベルが、最も官能的である逆説
ロランゾンは、コート・シャロネーズの村メルキュレに構える極小ドメーヌである。畑は数ヘクタールしかない。ラベルは白地に黒の文字が静かに並ぶだけで、装飾は何もない。紋章もなければ、手書き風のフォントもない。ボルドーの偉大なシャトーが全面キャンバスであるなら、このボトルはほぼ白紙だ。二〇〇四年に家業を引き継いだ現当主は、ぶどう栽培と醸造をほぼ独学で極め、低収量の畑仕事と、木目の細かい樽による丁寧な熟成に一切の妥協を許さなかった。その結果生まれるメルキュレの赤「シャン・モルコン」や白「レ・シャランダン」は、深い果実の黒さと、絹のように滑らかな質感、そして樽の木目を消し去るような細やかな磨きで、飲んだ人の記憶に長く残る。無地のラベルの中身が、最も肉感的である。この逆説こそ、二つの美意識の交差点だ。ヴェルサーチェの美が即座の視線を掴む「華」であるなら、ロランゾンの美は、注いだ数分後から静かに立ち上がる「影」である。ファッションは一瞥で成立し、ワインは時間で成立する。セクシーさの正体が「見せる力」ではなく「引き延ばす力」にあるなら、ワインこそがむしろ本家本元かもしれない。
名前の由来も、この逆説を後押しする。メルキュレという村名は、ローマの商業の神メルクリウスに由来すると言われる。商売の神を祀る土地で、いま最も熱烈に求められるワインが、あえて何も主張しないボトルである。マーケティングの神殿の中で無地を選ぶ、この静かな勝利は、雨の土曜の部屋にもよく似合う。着飾らなくても、内側の引力だけで人を離さない。それがメルキュレのワインの、いちばん魅力的な部分だ。
聖地を狙う前に、村の入口から歩く
現実の話をしよう。ロランゾンのトップキュヴェは生産量が極めて少なく、日本に届く数も限られ、価格は数万円の世界に達する。抽選に近い流通で、欲しい人の名前が帳簿の先まで並ぶ。所有欲は届かない場所で最も激しく燃えるが、ワインの上達は、村の入口から歩くほうがはるかに速い。メルキュレはコート・ドールの村々に比べて価格の壁が低く、しっかりした1級畑の赤でも五千円前後から手に入る。大ネゴシアン、ファイヴレが所有する1級畑「クロ・デ・ミグラン」はその代表格で、熟したチェリーの甘さと土の静かな苦みが、雨の日の部屋の空気に溶け込む。もう少しゆるやかな予算なら、隣村ジヴリやモンタニーの赤が、同じコート・シャロネーズの骨格を、もう少し柔らかい値段で見せてくれる。まず村を歩き、その頂にあこがれる──ワインの所有欲というのは、今夜の一本と、いつかの「シャン・モルコン」を、同じ地図の上に並べて持つことだ。
雨は夕方まで続くという。外に出る理由のない土曜は、逆説的に、一年で最も内面に似合う日である。着ない服、見えないラベルの文字、名前だけが先に届く畑。美は、消したものの上に残る。今夜は無地のラベルを、雨の音と一緒にそっと開けてみる。セクシーなワインが存在するかどうかは、誰にも証明できない。だがコルクを抜いた瞬間、部屋の空気が少しだけ深い色に変わるなら──それが、あなたの中の答えになる。







