
はじめに ── ワインの前では、誰もが対等である
ワイン会に初めて参加する方の多くが、こんな不安を抱えています。
「グラスの持ち方を間違えたら恥ずかしい」
「テイスティングの作法がわからない」
「知識がなくて場違いに思われないだろうか」
どうか、その不安を一度、テーブルの上に置いてください。
ワイン会のマナーとは、あなたを縛るためのルールではありません。それは、一杯のワインをより深く味わい、共に過ごす時間をより豊かにするための「知恵」です。フォークの持ち方を知っていることが人格を決めないように、グラスの持ち方を知らないことは、何ひとつ恥ずべきことではありません。
しかし、知っていれば──ワインはもっと美しく輝き、会話はもっと弾み、あなた自身がもっと自由になれます。
このガイドでは、ワイン会で本当に大切なマナーだけを、その「理由」とともにお伝えします。理由を理解すれば、マナーは暗記するものではなく、自然と体に宿るものになるはずです。
第一章 グラスの所作 ── 指先に宿る敬意

ステム(脚)を持つ ── 科学が裏付ける美しい所作
ワイングラスには、丸みを帯びた「ボウル」、細い「ステム(脚)」、そして「フット(台座)」があります。ワインを楽しむとき、ステムを親指・人差し指・中指の三本で軽く支えるのが基本の所作です。
これは見た目の問題ではありません。科学的な理由があります。
- 温度を守る。 ワインは温度によって味わいが劇的に変化します。白ワインは冷たさが命。ボウルを手のひらで包んでしまうと、体温36度の熱がグラス越しにワインへ伝わり、繊細な酸味やミネラル感が数分で失われます。
- 色を見る。 ボウルに指紋がつくと、ワインの色──ルビー、ガーネット、琥珀──を正確に観察できなくなります。ワインの色は、産地や熟成年数を物語る「視覚の言語」です。
- 香りを解放する。 ステムを持つことで、グラスをゆっくりと回す「スワリング」が安定します。液面がボウルの内壁を這い上がり、香気成分が空気と触れ合い、ワインは真の姿を現します。
💡 初心者のための安心メモ: ステム持ちに慣れないうちは、人差し指と中指でステムを挟み、親指をフット(台座)に添えるスタイルでも大丈夫です。安定感が増して、ワインをこぼす心配も減ります。大切なのは「ボウルを握らない」こと、それだけです。
乾杯の作法 ── グラスを鳴らさない理由
日本のワイン会では、グラス同士をぶつけて「カチン」と鳴らす乾杯は避けるのが一般的です。
理由はシンプル。上質なクリスタルグラスは非常に繊細で、グラス同士の接触で欠けたり、最悪の場合割れたりすることがあります。リーデルやザルトの薄いグラスが、あなたにワインの真の味わいを届けるために削ぎ落としたその「薄さ」は、同時に「壊れやすさ」でもあるのです。
正しい乾杯の方法は? グラスを胸の高さに軽く掲げ、周囲の方と目を合わせて微笑む。それだけです。「カチン」という音の代わりに、アイコンタクトという、もっと温かな「乾杯」が生まれます。
💡 ワンポイント: ホストやソムリエが「グラスを合わせましょう」と声をかけた場合は、グラスの最も厚い部分(リム=縁の少し下のふくらみ)同士を、そっと触れ合わせる程度に留めましょう。
スワリング ── 回す理由を知れば、怖くない
ワインをグラスの中でくるくると回す「スワリング」。初心者にとって、これほど「やっていいのか迷う所作」はないかもしれません。
回してください。 スワリングは見せびらかしの所作ではなく、ワインを「開かせる」ための技術です。
ワインは瓶の中で眠っています。グラスに注がれた直後は、まだ「寝起き」の状態。スワリングによって液面が空気に触れる面積が増え、閉じていた香りが次々と目覚めます。最初の一回しで果実香が、二回しで花の香りが、三回しでスパイスの気配が──。
コツ:
- グラスをテーブルに置いたまま、フットの縁を指で押さえて小さな円を描くように回すのが最も安全です。
- 慣れたら、ステムを持って空中で回してみましょう。反時計回りが一般的です(万が一こぼれても、右隣の方にかかりにくいという配慮から)。
- 最初は少量のワインで練習を。グラスの1/3程度が、スワリングに最適な量です。
第二章 テイスティングの心得 ── 五感で「聴く」時間

テイスティングの三段階 ── 目、鼻、口
ワイン会でテイスティングの時間が設けられたら、慌てて口に運ぶ必要はありません。ワインは、三つの段階で味わうものです。
第一段階:目で見る(外観)
グラスを白いテーブルクロスやナプキンの上に傾けて、ワインの色を観察します。若い赤ワインは鮮やかな紫がかったルビー。熟成が進むとオレンジを帯びたガーネットに。白ワインなら、淡いレモンイエローから、熟成とともに黄金色、琥珀色へ。色の中に、ワインの「時間」が見えます。
第二段階:鼻で嗅ぐ(香り)
まずスワリングの前に一度、グラスに鼻を近づけてください。これが「第一アロマ」──ブドウ品種そのものの香りです。次にスワリングをして、もう一度。空気と触れ合ったワインから立ち上る「第二アロマ」「第三アロマ」が現れます。果実、花、スパイス、土、革……。正解はありません。あなたが感じたものが、あなたにとっての正解です。
第三段階:口で味わう(味わい)
少量を口に含み、舌の上で転がすように広げます。甘味、酸味、渋味(タンニン)、そしてアルコールのボリューム感。飲み込んだあとに口の中に残る余韻──フランス語で「フィニッシュ」と呼ばれるこの時間こそ、偉大なワインが偉大である所以です。
💡 テイスティングで「わからない」は恥ずかしくない: 「すみません、よくわからなくて……」と言える人は、実はワイン会で最も好かれます。なぜなら、その正直さが場の空気を和らげ、周囲の人が「実は私もよくわからないんです」と打ち明けるきっかけになるからです。ワインの世界では、知ったかぶりより、素直な感動のほうが何百倍も価値があります。
注いでもらうときの作法
ソムリエやホストがワインを注いでくれるとき、覚えておきたいことが二つあります。
- グラスを持ち上げない。 テーブルに置いたまま、注いでもらいます。グラスを持ち上げると注ぐ側が距離感を取りにくく、こぼれる原因になります。
- 「結構です」の伝え方。 もう十分なとき、グラスのリムの上に指先を軽くかざすか、小さく手のひらをグラスに向けて「ありがとうございます」と微笑めば伝わります。グラスに手をかぶせるのはやや大げさ。軽い所作で十分です。
ワインを残しても良い
これは、初心者が最も安心すべき事実です。ワイン会で、グラスのワインを飲み切る必要はまったくありません。
テイスティング形式の会では、5種類から10種類以上のワインが供されることもあります。すべてを飲み干したら、後半のワインを正確に味わうことは不可能です。プロのソムリエですら、テイスティングでは「吐器(はきき)」と呼ばれる容器にワインを吐き出します。
吐き出すことに抵抗があれば、グラスに残しておくだけで構いません。スタッフが自然に下げてくれます。「もったいない」と思う優しい気持ちは素敵ですが、あなたの体調とこの先のワインとの出会いを大切にしてください。
第三章 会話のマナー ── ワインが紡ぐ対話の美学

知識のマウントを取らない ── 最も嫌われる振る舞い
ワイン会で最も避けるべきマナー違反は、グラスの持ち方を間違えることでも、テイスティングの順序を間違えることでもありません。
それは、ワインの知識で他者を見下すことです。
「このワイン、作り手を知っていますか?」「このヴィンテージは実は……」──知識を共有すること自体は素晴らしいことです。しかし、その言葉の裏に「私のほうが詳しい」という優越感が透けた瞬間、ワインの魔法は解けます。
ワインの世界には、こんな格言があります。
「ワインについて最も多くを知る者は、ワインについて最も謙虚である。」
偉大なワインメーカーほど、自分のワインについて「まだわからないことだらけだ」と語ります。知識は、共有するためにある。誰かを萎縮させるためにあるのではありません。
感想は正直に、そして肯定的に
ワイン会では、「このワイン、どう思いますか?」と聞かれる場面があります。
そのとき、ワインの専門用語を知らなくても、まったく問題ありません。大切なのは、あなた自身の言葉で、正直な感想を伝えることです。
- 「なんだか夏の夕暮れを思い出す香りがします」
- 「最初は酸っぱいと思ったけど、飲み進めるうちに甘みが見えてきました」
- 「正直、よくわからないのですが……なんだか落ち着く味です」
こうした素朴な感想こそが、ワイン会の会話を豊かにします。「カシスとブラックベリーのアロマにトーストのニュアンスが──」という専門的なコメントより、「おばあちゃんの家の庭を思い出しました」という一言のほうが、ずっと多くの人の心を動かすことがあります。
ただし一点だけ。ワインを「まずい」と断じることは避けましょう。 それは、ホストがあなたのために選んでくれたワイン、造り手が何年もの歳月をかけたワインへの敬意を欠く表現です。好みでなければ、「私には少し個性的に感じます」「もう少し軽いものが好みかもしれません」と柔らかく伝えれば十分です。
話しすぎない、独占しない
ワイン会は、ワインを媒介とした「出会いの場」です。特定の人とだけ長時間話し込んだり、場の会話を独占したりすることは、他の参加者の体験を狭めてしまいます。
立食形式なら、20分に一度は場所を移動するくらいの意識で。着席形式なら、左右の方に均等に話しかけるよう心がけましょう。ワインが人と人をつなぐ飲み物なら、あなたもまた、人と人を「つなぐ存在」であってほしいのです。
第四章 食事のマナー ── ワインと料理の婚礼
ペアリングへの敬意
着席型のワイン会で、コース料理とともにワインが供される場合、そこには必ず「ペアリング」──料理とワインの組み合わせ──への意図があります。
魚料理に白ワイン、肉料理に赤ワインという古典的な組み合わせだけでなく、甘みと塩味、酸味と脂肪、渋みと旨味──さまざまな「対話」が計算されています。
守るべきマナー:
- 料理が運ばれたら、まず一口食べてからワインを含んでみてください。口の中で料理とワインが出会う瞬間の「化学反応」を、意識的に味わってみましょう。
- ペアリングされたワインとは別のワインを「あちらのワインを飲みたいのですが」とリクエストするのは控えめに。ホストやシェフの意図を尊重しつつ、自由な選択が許されるカジュアルな場であれば問題ありません。
テーブルでの基本所作
- 口を拭いてからグラスに口をつける。 料理の油脂がグラスのリムにつくと、ワインの香りの立ち方が変わります。一口食べたあと、ナプキンで軽く唇を押さえてからグラスに手を伸ばす──その2秒の所作が、ワインの味わいを守ります。
- ナプキンは膝の上に。 テーブルを立つときは椅子の上に置きます(会食中であることの印)。食事が終わったら、軽くたたんでテーブルの上に。きっちり折る必要はありません。
- スマートフォンはポケットかバッグの中に。 テーブルの上にスマートフォンを置くことは、「この場より大事な用がある」というメッセージになりかねません。どうしても必要な場合は、一言断りを入れて。
第五章 知っておくと安心な暗黙のルール
時間厳守 ── ワインは待ってくれない
ワイン会の開始時間には、必ず間に合うように到着してください。 できれば5〜10分前に。
これは単なるマナーの問題ではありません。多くのワイン会では、最初の一杯──ウェルカムシャンパーニュや、その日のテーマを象徴するワイン──に、ホストの最も強い想いが込められています。遅刻してその一杯を逃すことは、物語の冒頭を読み飛ばすようなものです。
写真撮影のエチケット
美しいワインやお料理を写真に収めたい気持ちはよくわかります。SNS時代のワイン会では、撮影は概ね許容されています。ただし:
- 他の参加者の顔が映り込む写真は、許可なくSNSに投稿しない。 これは法的にもマナー的にも重要です。
- フラッシュは使わない。 ワイン会の照明は、ワインの色を最も美しく見せるために計算されていることがあります。フラッシュの白い光は、その空間の魔法を壊します。
- 撮影に没頭しすぎない。 ワインの写真を完璧に撮ることより、ワインを完璧に味わうことのほうが、きっと記憶に残ります。
お酒のペースと断り方
ワイン会は、酔うための場ではありません。ワインを「味わう」場です。
自分のペースを守ることは、最も重要なセルフマナーです。注ぎ足しを断ることは、まったく失礼ではありません。「ありがとうございます、少し休憩します」「お水をいただけますか」──この一言が言えることこそ、大人の嗜みです。
そして、お水は積極的に飲んでください。 ワインと同量の水を飲むのが理想的です。プロのテイスターも、ワインの合間に必ず水で口をリセットします。水を飲むことは弱さではなく、ワインへの真剣さの証です。
結びに ── マナーの先にある、自由
ここまでお読みいただいて、「覚えることが多い」と感じたかもしれません。
しかし、振り返ってみてください。このガイドでお伝えしたことの本質は、たった三つの言葉に集約されます。
ワインを大切に。
人を大切に。
時間を大切に。
グラスの持ち方も、乾杯の作法も、テイスティングの手順も、すべてはこの三つの「大切に」から自然に生まれる所作です。
マナーとは、あなたを縛る鎖ではありません。マナーを知ることで、あなたは「どう振る舞えばいいか」という不安から解放され、目の前のワインと、隣にいる人と、今この瞬間に集中できるようになります。
それこそが、マナーの先にある「自由」です。
初めてのワイン会で、もしグラスの持ち方を間違えても、乾杯でグラスを鳴らしてしまっても、テイスティングコメントが思いつかなくても──大丈夫です。あなたが「ワインを楽しみたい」という気持ちでその場にいること自体が、最高のマナーなのですから。
さあ、グラスを手に取りましょう。
ステムを、そっと。
ようこそ、ワインの世界へ。
このガイドは winekai.jp のワイン会に参加される方のために執筆しました。初めてのワイン会が、忘れられない体験になることを心から願っています。