大赤字の夜。予算度外視で「伝説の1本」を開けてしまった主催者の本音

その夜、私は完全に理性を失った。
参加者12名。会費は一人8,000円。つまり収入は96,000円。
そこに並べたワインの総額を計算して、私は電卓をそっと伏せた。
見なかったことにしよう、と思った。
始まりは、一通の入荷通知だった
ワイン会の準備をしていたある日。信頼しているワインショップから、一通のメールが届いた。
「入荷のお知らせ:○○○○ 20XX年」
銘柄は伏せるが、ワインを少しでもかじったことがある人なら、きっと目を見開くような名前だ。市場ではなかなか手に入らない。入荷してもすぐに消える。そんな1本が、たまたまこのタイミングで。
「次のワイン会のテーマに、ぴったりじゃないか」
脳内の冷静な自分が「予算的にありえない」と叫んでいた。
でも、指はもう「購入」ボタンを押していた。
赤字は覚悟の上。それでも開けたかった理由
ワイン会を主催していると、ときどき「この1本を、この人たちと分かち合いたい」という衝動に襲われることがある。損得ではなく、衝動。
あの日のテーブルには、ワイン歴わずか数ヶ月の若い参加者がいた。毎月欠かさず来てくれて、ワインノートを丁寧につけている。「いつかブルゴーニュの偉大なワインを飲んでみたい」と、前回ぽつりと言っていた。
私はその言葉が、ずっと引っかかっていた。

グラスに注いだ瞬間の、あの静寂
ワイン会当日。テーブルに6本のワインを並べた。最初の5本は、テーマに沿った良質なセレクション。そして最後の1本——あのワインは、あえて最後に取っておいた。
「最後に、ちょっと特別な1本を開けます」
エチケット(ラベル)を見せた瞬間、数人の参加者の目の色が変わった。
知っている人は、声にならない声を上げていた。
知らない人は、その反応を見て「なにかすごいワインなんだ」と察していた。
コルクを抜く。デキャンタージュはしない。このワインは、グラスの中でゆっくり開いていく過程そのものが体験だから。
注いだ瞬間、テーブルが静かになった。
12人が、ほぼ同時にグラスに鼻を近づける。
そして、誰かが小さく「……うわ」と漏らした。
その「うわ」に、すべてが集約されていた。
数字では測れないもの
会が終わった後、例の若い参加者が私のところに来た。
「あのワイン、一口飲んだとき、なんだか泣きそうになりました。ワインで泣きそうになるって、自分でもびっくりです」
その言葉を聞いた瞬間、赤字のことはきれいに消え去った。
これは「お金の話」ではない。
「味の話」でもない。
ワインを通じて、人が自分の中に眠っていた感受性と出会う瞬間——その場に立ち会えたという、主催者だけが味わえる贅沢の話だ。

だから、また赤字を出すかもしれない
正直に言おう。あの夜以来、私の中で何かが変わった。
もちろん、毎回赤字を出すわけにはいかない。ワイン会を続けていくためには、最低限の収支バランスは必要だ。それは大人の事情として理解している。
でも、年に一度か二度、「この瞬間のためにやっている」と思える夜がある。
参加者の表情に、言葉にならない感動が浮かぶ夜。
ワインが、ただの飲み物から“体験”に変わる夜。
その夜のためなら、私はきっとまた電卓を伏せる。
ワイン会は、ビジネスとしては正気じゃない。
でも、正気じゃないからこそ、人の心に届くものがある。
次に「伝説の1本」を開ける夜は、もしかしたらあなたがいるテーブルかもしれない。