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世界最大のワインセラーは、銘醸地にない──地の底200km、ワインの名を持つ街

月が九時に昇る夜の、二時間

十月二日、金曜。東京の日の入りは午後五時二十七分。退勤の波が地下鉄へ流れ込むころには、街はもう秋の濃度を帯びている。日中は二十五度まで上がる夏の名残の暖かさにもかかわらず、夜が来れば二十一度まで落ちて、建物の陰に立つと袖の有無がためらわれる。今夜の天気は晴れ、ただしにわか雨の確率は三割ほど。そして見逃せないのは、月の出が遅いことだ。午後九時十三分、東の空からようやく七割弱を光らせた欠けた月が顔を出す。月が昇るまでの二時間あまり、地上の夜にはその中心がひとつ欠けている。金曜の夜の静かな欠落を肴に、今夜は「底」の話をしよう。月と同じで、地上からは決して見えない場所の話である。

街路の名前が、ぶどうの名前

モルドバ、首都キシナウの郊外にミレスチィ・ミチという村がある。先日、米ワイン専門誌が「全長百二十四マイルの宝庫」として報じた場所だ。ここはもともと石灰岩の採石場で、建材を求めて地下を掘り進めた巨大な空洞が、そのままワインセラーへ転じた。坑道の総延長はおよそ二百キロ。東京から浜松までの直線距離に匹敵する回廊が、深さ数十メートルの地の底を縦横に走っている。実際に貯蔵に使われているのはそのうちの約五十五キロ、それでも十分に一つの都市の規模だ。しかも地下に走る通りには、「カベルネ通り」「フェテアスカ通り」といったぶどう品種の名前がつけられている。地図を開けば銘柄が返り、住所を辿れば一瓶のボトルに到達する。ここでは地名辞典そのものが、巨大な醸造台帳になっている。

石灰岩がつくる、一年中の秋

この地下都市の気象を、機械はつくっていない。恒温十二から十四度、湿度は八十五から九十五パーセント。その値を調整しているのは空調の設定でも修理台帳でもなく、掘り出されたままの石灰岩そのものだ。岩は湿気を吸っては吐き、温度の凸凹をならし、セラーに理想的な環境を保ち続ける。つまりこの村の地下だけ、季節が一年中「秋の夜」で止まっている。地上のワインが残暑と寒波と闘いながら熟成するのに対し、ここでは季節が味方であり、もっとも忠実な番人である。静けさと揺れのなさがワインの熟成に求められると聞くが、この深さなら地上の騒音も季節の波も、ボトルに届く前に岩に削り取られる。

二百万本の、ギネスの年輪

二〇〇五年、このセラーは「世界最大のワインコレクション」としてギネス世界記録に認定された。登録本数はおよそ二百万本。貯蔵庫という言葉では足りず、「地下に建てられた図書館」と呼ぶほうが実感に近い。棚には一九六〇年代末から途切れることなく積み上がったヴィンテージが並び、とりわけ「ゴールデン・コレクション」と呼ばれる古酒の部類は、木の枠の中に年輪のように刻まれて眠っている。市場には滅多に出ず、開けられることも、買われることもなく、ただ時間を預かり続ける。もったいない話に聞こえるかもしれないが、これこそコレクションの本質だ。開けるために集められた酒と、預けるために集められた酒は、別の生き物なのである。

なぜ最大のセラーが、銘醸地にないのか

ここに今夜の逆説がある。世界最大のコレクションを誇るのが、ボルドーでもブルゴーニュでもなく、人口およそ二百四十万の内陣国モルドバで、しかも採石場の跡地だという事実。理由は素朴である。銘醸地の名門が地下数百メートルに新たな貯蔵空間を確保しようとすれば、土地の価格がまず足かせになる。ここには、すでに岩が掘られ、恒温の部屋が用意されていた。贅沢の最高位が、意外な場所の「穴」から生まれる。隣村クリコヴァも約百二十キロの地下回廊を持ち、同じく「地下のワイン都市」と名を連ね、宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンの訪問を記念した通りがあると伝えられる。伝説と史実の境がやや曖昧なところも含めて、地下都市の趣というものだ。

そして現実的な話をもうひとつ。ミレスチィ・ミチの現行ワインは驚くほど身近で、カベルネ・ソーヴィニヨンのスタンダードな一瓶が、日本の店の棚で二千円台で見つかることもある。世界記録のセラーから出た酒を、数千円で自分の食卓に載せられる。コレクションの歴史の重みと価格の軽さが、これほど乖離した場所は、ほかを探してもなかなか知らない。

欠ける月、満ちる熟成

夜九時すぎ、月はようやく東の空に上がる。七割弱を光らせた欠けた月は、これから一週間かけてさらに細り、つぎの新月を待たずして一度消えてしまう。月は減っていく。その一方で、地の底の二百万本は減ることなく、静かに満ちていく。時間を瓶に預け、瓶を岩に預け、岩に暗闇を預ける。それは「所有」の極北ではなく、「預かり」の道徳に近い。十月は、わたしたちが保管の季節に入る月でもある。家の棚でも、冷暗所でもいい。明るさを避け、振動を断ち、温度をできるだけ一定に。それだけで瓶の中の時間は、静かに深くなっていく。金曜の夜、グラスに注ぐ前にセラーの扉を少しだけ覗いてみてほしい。その扉の奥は、九千キロの彼方にある二百キロの回廊と、同じ秋の気象でつながっているのだから。今夜は月より先に、底から乾杯の時間だ。

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